古い記憶がよみがえる、A Village After Dark / Kazuo Ishiguro

Helsinki 2005
Helsinki 2005

生まれつき三半規管の出来が悪いのか、子供の頃から方向音痴なところがある。加えて、フィンランドでもよく道に迷ったのは緯度が名古屋より高く地磁気の感覚が微妙にズレていたから、なんてことも原因だったかも知れない。

ヘルシンキに住んでいた年の雪降るクリスマス・イブの夕方、買い物先からHeikinlaaksontieにある自宅のフラット(カクシオ)に帰るのに苦労したことがある。

午後3時頃にはまだ動いていた市バスで、最寄りのPuistola駅前のK-marketまで買い出しに出かけたときのことだ。

買い込んだポテトチップス炭酸水、ハム(lauantai)やオートミール(puuro)などの食料で膨らんだリュックを背負い、午後4時過ぎに駅前のバス停で待っていたが、ちっともバスが来ない。

そこでたまたま一緒に待ち合わせていたフィンランド人の中年の女性(rouva)が、フィンランド語で「バスが来ると思うか」と、時刻表をのぞき込みながら不安そうに僕に話しかけてきた。

“It’s very late,” I said. “Are you sure a bus will come?”
“Oh, yes. Of course, you may have to wait. But eventually a bus will come.” Then he touched me reassuringly on the shoulder.

Kazuo Ishiguro, “A Village After Dark” (New Yorker, 2001)

「もうすごく遅い時間だけど、本当にバスは来るのかい?」と私は訊いた。
「ああ、来るとも。まあしばらく待たされるかもしれない。でもいずれは来るのさ」。そう言ってロジャー・バトンは、励ますように私の肩に触れた。

カズオ・イシグロ「日の暮れた村」柴田元幸 訳(『池澤夏樹=個人編集の短篇コレクションⅡ』所収)河出書房新社

引用は、カズオ・イシグロの A Village After Dark の最後の場面で交わされる、主人公のFletcherとRoger Buttonの会話だ。個人的に気になる場面である。読むたびに、日の暮れたヘルシンキの街はずれのバス停で、 これとそっくりな会話を交わした時のことを思い出す。

その女性は早々にバスを諦め、降りしきる雪の中、薄暗い街路の奥へと消えていった。その後少なくとも1時間以上は独りでバスを待っていたが、結局バスを諦めて歩いて帰ることにした。暗くて静かで寒い道をひざ上まで積もった雪をかき分け歩いた。

バスで来た道は反対方向から眺めると見覚えのない風景に変わる。不安と焦りで疲労困憊しながら、思いつく限り最も効率の悪い道筋をぐるぐるとたどり、とにかく自宅にたどりつければと念じつつ、たっぷりと1時間以上かかって、なんとか帰宅することができた。

フィンランドにおけるクリスマス・イブの、公共交通機関の運行状況を甘く見ていた自分が悪かったのだが、来るはずのないバスを待って過ごしていた時間は今から思えば、期せずして体験することになった貴重な経験だった。

カズオ・イシグロの小説を英語を読むのは、自分にとっては簡単なことではないけれど、辞書を引きながら時間をかけてでも読む価値があると思う。英語の文章から感じる不思議な親密感と自然な会話のやり取りが特に好きだ。

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じつぷり
じつぷり

A Village After Darkは、柴田元幸訳がある。『紙の空から』と『池澤夏樹=個人編集の短篇コレクションⅡ』に所収。


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