二〇〇五年冬、ヘルシンキの栗鼠

Orava Helsinki 2005

梅雨に入ってとても蒸し暑いので、冬のヘルシンキのことを思ってみる。二〇〇五年十二月初旬のヘルシンキ、雪がちらつくある日のことが脳裏に浮かんでくる。アパートの窓のすぐ外にある木の枝先に栗鼠がとまっていた。栗鼠はじっとして動かない。

栗鼠はまるでデューラの『メランコリア I』の天使のように深い瞑想に耽り、中宮寺の菩薩半跏思惟像のように美しく、あるいは頬杖をつくムーミンパパのように物思いに沈んでいた。

ぼくたちがそこに引っ越してきたその年の九月には、栗鼠たちは、せわしなく赤や黄色の落ち葉の上を走り回り、木に登ったり降りたりして、アパートの裏の林は毎日大騒ぎだった。その栗鼠族の一匹と思しきが、冬そのものになったかのように静かにじっとしていた。

栗鼠は何を考えていたのだろう。生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問についてだろうか。ひょっとしたら、夏のことを思っていたのかもしれないし、冬支度で地面に埋めた木の実の隠し場所を思い出そうとしていたのかもしれない。

あのときの栗鼠のように動くのをやめて静かに座る。そうしていると何か、今朝みた夢のこととか、読みかけの小説のこととか、を思い出しそうになるが、すうっと消えてしまう。大切なことのようでもあり、そうでもないような。忘れたことすら忘れている。それはつまり忘れなかったことになるのだろうか。いっとき、自分があいまいになって、湿度の高い空気に溶け込み、このまま消えていくような気分になった。

ついになしとげた ── 彼はザイスの女神のベールを掲げたのだ。
                      ノヴァーリス

ミルチャ・エリアーデ「ホーニヒベルガー博士の秘密」住谷春也訳
Mircea Eliade, “Secretul doctorului Honigberger” (1940)
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