図書館で本を借りる理由

中央図書館
中央図書館

読んでいるのは図書館から間違えて借りてきた本だった。頼んだのとは違う本を渡されたわけだけど、部屋に戻ってくるまでその間違いに気づかなかった。僕が受け取ったのはイサク・ディネセンの『アフリカの日々』だった。どうせろくでもない本なんだろうと思ったけど、実はそんなことはなかった。ずいぶん優れた本だった。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 白水社

図書館をよく利用する。学生の頃は、学校の図書館に入り浸っていたし、僕が住んでいる町の公共の図書館もインターネットで予約ができるようになってから、よく行くようになった。

新しい本を書店やネットで購入するのもいいけれど、図書館で本を借りて読むことについては、自分の経済が許さないからとか、本を買っても置く場所がないからという消極的な理由ばかりではない。

もちろんそれら諸々の事情は切実ではあるけれど、むしろ図書館から本を借りて読むということを積極的に楽しみたいと思っているからだ。そしてそのことが自分の読書体験を豊かにしてくれるのではないかと、密かに期待もしている。

最近、ガルシア・マルケスの『わが悲しき娼婦たちの思い出』を近所の図書館で借りた。川端康成のエピグラフが印象的な本だった。

読み始めてすぐに、なんか変だなという違和感を感じた。さらに読み進むうちにその原因を発見した。なんと、その本の中に出てくる「女性」という漢字のすべての「性」という文字だけが修正テープで白く塗りつぶしてあったのだ。

白い色で修正が施されていたので、地の紙と見分けがつきにくく、それと気がつくまですこし時間がかかったのかもしれない。一箇所だけ、その白い部分を爪で引っ掻いて剥がそうとした跡があって、「性」の字が隠蔽されたのだということがわかった。

戦争中に、政府に都合の悪い文言やフレーズを黒く塗りつぶす検閲というのはがあるが、特定の文字だけを白く塗りつぶしてある本に出会ったのは初めてだった。

まさか、ガルシア・マルケスも(日本語に翻訳されているとはいえ)自分の本の中で「女性」の「性」の文字だけ、丁寧に白く消し込まれてしまうことになろうとは、想像もしなかったんじゃないかな。

図書館の本は寄贈されることもあるので、なんとも言えないが、たぶんこの本を借りた利用者のだれかがやったのだろう。本に勝手に消しこみを入れるなんて、本当はルール違反にきまっていると思うが、大胆だけれど、ある意味ささやかな「検閲」は案外誰にも気が付かれないのかもしれない。

ともあれ「女性」という表記が「女」に変わってどうかかというと、オリジナルのスペイン語がどうであるかは別にして(どちらにしても僕はスペイン語は読めません)、「女」の方が個人的には、良いように思えた。

また、最初から普通に「女性」と書いてあれば、表現上「女性」がいいか「女」がいいいか、なんて考えもしなかっただろう。そいういう意味では、この「検閲人」は、ガルシア・マルケスとこの小説に対して、悪意はなかったのではないか、むしろ愛着が強すぎた結果したことなのではないかと僕は(勝手ながら)好意的に受け取った。

それに、自分で本を買っていたら、こんな読書体験はできなかっただろう。たまたま手に取った本に思いがけないことを見つける楽しさも、僕が図書館で本を借りようと思う理由の一つなのだから。


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