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ツバメのまなざし

日々
Swallows on wire

 ……「たとえば、わたくしたちツバメは、巣をつくった家の壁に、あとからやってくるツバメへの伝言として、いつものしるしを書き残します。これをごらんください。」とスキマーは、先生の足もとの砂の上に、いくつかの十文字やしるしをつけました。「これは、『この家には巣をつくるな。ネコが飼ってある。』という意味です。それから、これは。」と、スキマーは、砂の上にまた四つのしるしをつけました。「これは『よい家だ。ハエがたくさんいる。人間たちもさわがない。巣をつくる土は、うまやの裏手にある。』という意味です。」

ヒュー・ロフティング『ドリトル先生の郵便局』井伏鱒二 訳 岩波少年文庫

「チーウィーヒー、ジー!チーウィーヒー、ジー!」名古屋にもツバメの音が聞こえる季節がやってきた。近所のマンションの1階部分の駐車場軒下に、ツバメが毎年決まって巣をかける場所がある。

今年もそこに建築中の巣を見つけた。ところが翌朝には完成間近の巣がとりはらわれて、かわりに「巣よけ」だろうか、ピンポン玉サイズの緑色の丸いボールがぶら下げてあった。 真下に駐車してある車に、ツバメの糞が落ちるのを事前に防止しようということなのだろう。

ツバメが巣をかけた家の守護者であることは昔から知られている。ツバメは古来、火事や落雷から家を守り、無病息災と商売繁盛をもたらす縁起の良い渡り鳥なのだ。

最近は、そんな縁起物よりも車の方が大切なのだろうか。了見が狭いというか、風情がないというか、心が貧しいというか、ケツの穴が小さい。巣を取り除かなくてもツバメの糞ぐらい、傘でもさしておけばよいではないか。

などと、勝手なことを思っていたら、視野の右下方になにやら熱い視線を感じた。そちらに目をやると、2メートルほど離れたアスファルト上に一羽のツバメがスクリと立っていた。「わし、ここにおりますよ」と存在をアピールする真剣な眼差しで僕を見つめている。

ふと視線を上げると、同じマンションの駐車場だが別の軒下に再建中の巣があって、つがいの相手方と思しきツバメがその中にいた。やはり僕のことをチラチラと見ている。

だいたい、ツバメというものは上空をスイスイ飛んでいるか、電線に止まっているものだが、アスファルトの上にいるツバメというものをあまり見たことがない。

どこか具合でも悪いのではないかと心配したが、そうではなかった。つがいの一つが地面に降りて囮となり、人間の注意を自分に惹きつけて巣を守ろうという、体を張った決死の防衛作戦だったのだ。

建築中の巣を不条理に取り壊されて、警戒心が最大化しているツバメの目つきには、思わず後ずさりするほどの気迫が込められていた。ついうっかりと彼らのパーソナルスペースに入り込んでしまった僕が悪かった。

アメリカだったら射殺されても文句は言えないレベルだ。「私は怪しいものではございません」とツバメ語で言えればいいのになと思いながらすぐさまその場から離れた。

卵や雛がいるツバメの巣を撤去すると鳥獣保護法第八条違反となり、同法第八十三条が適用され、一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処せられる可能性があるので注意が必要だ。

法律なんか持ち出さなくても、ツバメが安心して渡って来られるところに、僕も暮らしたい。毎年この季節に、ツバメの「チーウィーヒー、ジー!チーウィーヒー、ジー!」を耳にすることくらい素敵なことなんて、ちょっとないことだと思うのだが。

 日本でもヨーロッパでも、燕は巣をかけた家の、火事と電光(いなずま)に対する守護者として評価されているが、その起源がこの鳥が冬眠するという想像にあることは、次のような段成式の文章によって、立証される。──「あるいは言う、燕は水底に蟄す、と。旧説に、燕の室に入らざるは、これ井の虚なるなり。桐を取って男女となし、各一を井中に投ずれば、燕かならず来たる、と」。

南方熊楠『燕石考』(河出文庫『南方民俗学』中沢新一 編)所収

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