「アキ・カウリスマキの映画ってどんな感じ?」と、質問されたときは「淡々としたファンタジーの映画だ」と答えている。
「淡々とした」というのは、例えば小津安二郎の映画についてよく用いられる形容詞かもしれない。『東京物語』では、「淡々と」老夫婦の姿が映しだされ、原節子との会話にじんわり感動する。
アキ・カウリスマキの映画では、役者の会話は「話し言葉」ではなく「書き言葉≒ほぼ標準語」になっているのだと、フィンランド語の先生から聞いたことがある。
実際のフィンランド語には方言があるので、話している言葉を聞けば、ある程度出身地がわかるみたいだ。
フィンランド滞在が短いぼくでも、ヘルシンキで初めて会う相手が、タンペレ人だとわかったときが何度かあった。フィンランドでは「標準語」での会話自体、そもそもファンタジーなのだ。
ところで、消しゴム版画家のナンシー関がアキ・カウリスマキの「淡々」について、次のように書いていた。
マッチエ場でベルトコンベアに乗って流れてくるマッチを監視しているところと、車にはねられるとか毒を盛るといったあからさまにドラマチックな意味を持つところを、全く同じ扱いで淡々と描いている。
ナンシー関『何を根拠に』世界文化社
「毒を盛る」とか、不穏当ではあるが、それでも日々、些細な事でイライラしたり、どうでもいいことに振り回されてしまうと「淡々としている」って意外と難しいことだと感じる。
スイスの建築家、ペーター・ツムトアが、こんなことを言っている。
その夜、ある女性の友人と、アキ・カウリスマキ監督の最新作についておしゃべりする。私はカウリスマキ監督が自作の映画の登場人物にしめす共感と尊敬をすばらしいと思う。カウリスマキは役者を監督のあやつり人形にしない。コンセプトを表現するために役者を利用するのではなく、むしろ役者を映画のなかに置いて、その尊厳、その秘密を私たちに感じ取らせる。カウリスマキの映画術は彼の映画に温かみの表現を与えている、と同僚の女性に話しながら、いまになって、けさテープに向かってこう言えばよかったのだ、と気づく。カウリスマキが映画を作るように家を建てることができたら、どんなにかすばらしいだろうに、と。
ペーター・ツムトア『建築を考える』(みすず書房)鈴木仁子 訳
「カウリスマキが映画を作るように日々を過ごすことができたら、どんなにかすばらしいだろうに」と、自分だったら言いたい。ただ現実的には、それがなかなかできないからカウリスマキの映画がファンタジーとして成立しているし、だからこそぼくにはカウリスマキの映画が必要なのかもしれない。
コメント