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#041 ロバート・F・ヤング「九月は三十日あった」、ヤングのSeptember Love

短篇小説
Robert F. Young, "Thirty Days Had September"
ロバート・F・ヤング「九月は三十日あった」伊藤典夫訳

時は2061年、学校教育が完全民営化され、学校や教師が絶えて久しいアメリカ。春のある日、妻子ある男が会社帰りに学校教師を買って帰る。

ダンビーは古道具屋のウィンドウで「学校教師」を見初める。完全オーバーホール済み中古アンドロイド、ミス・ジョーンズの価格は格安の49ドル95セント。妻ローラの家事や、息子のビリーの勉強を手伝わせるのにちょうどいいと、衝動買いの正当化を図る。

妻とは対照的なミス・ジョーンズの教養と立ち居振る舞いが、プルーストにとってのプティット・マドレーヌのように、ダンビーにとって特別な意味を持った九月の日々への扉を開いていく。

But he’d never liked school any more than the other kids had, and he knew that September stood for something else besides books and autumn dreams. It stood for something he had lost somewhere along the line, something indefinable, something intangible; something he desperately needed now –

Robert F. Young, “Thirty Days Had September” (F&SF, 1957)

 といって、ほかの子供と比べてとりわけ学校が好きだったわけではない。それに彼自身、九月には、本や秋の夢のほかにも何か意味があることに気づいていた。成長の過程のどこかで失くした何か、言葉にはいいあらわせない、かたちのない何か、今の彼にとってもっとも必要な何か-

ロバート・F・ヤング「九月は三十日あった」伊藤典夫 訳(『ジョナサンと宇宙クジラ』所収)ハヤカワ文庫SF

ダンビーとミス・ジョーンズが、「ロミオとジュリエット」のセリフをなぞる場面は、ミス・ジョーンズが限りなく人間の女性に近づくかのように感じる瞬間だ。尾崎翠の小説「アップルパイの午後」の中で、「人間として存在していくには、やはり恋なんだ」という兄の言葉を唐突に思い出した。

ところで、曲名に「September」とついたポップソングが、ちょっと思い出しただけでも結構ある。一風堂〈すみれ September Love〉、デヴィッド・シルヴィアン〈September〉、竹内まりや〈September〉、アース・ウィンド・アンド・ファイアー〈September〉など。「九月」や「September」には、人をノスタルジックな気分にさせる特別な力があるみたいだ。

「九月は三十日あった」は、ピグマリオンの恋と九月へのノスタルジイがクロスオーバーする異類恋愛譚。江戸川乱歩の「人でなしの恋」や「押絵と旅する男」をあわせて読んでも面白い。九月と古風なものが好きな人にお勧めだ。

ダンビーとミス・ジョーンズの二人が、ホットドッグ屋で一緒に働くラストがほほえましい。読後、ホットドッグが食べたくなる

じつぷり
じつぷり

この小説が発表された1957年から約100年後に設定された小説世界では、学校や教師だけではなく、紙に印刷された本や、本物のホットドッグもなくなってしまっている。2021年現在、なんだか現実味を帯びてきた。


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