田中康夫の「伊豆山 蓬莱旅館」で母と娘が訪れたのは、伊豆のリゾート地にある老舗旅館だった。ロアルド・ダールの短篇小説「女主人」の舞台は、イングランド有数の温泉処でリゾート地のバースだ。
Billy Weaver had travelled down from London on the slow afternoon train, with a change at Swindon on the way, and by the time he got to Bath it was about nine o’clock in the evening and the moon was coming up out of a clear starry sky over the houses opposite the station entrance. But the air was deadly cold and the wind was like a flat blade of ice on his cheeks.
Roald Dahl, “The Landlady” (The New Yorker, Nov. 1959)
ビリー・ウィーヴァーは午後の鈍行列車に乗ってロンドンを発った。途中、スウィンドンで乗り換え、バースに到着する頃にはすでに夜の九時前後になっていた。通りをはさんで改札口とは反対側の家並みの上、星がきらめく澄んだ夜空に月がくっきりとかかっていた。空気は死ぬほど冷たく、頬にあたる風はまるで氷の刃のようだった。
ロアルド・ダール「女主人」田口俊樹 訳 (『キス・キス(新訳版)』所収)ハヤカワ文庫
夜のバース駅に降り立った17才のビジネスマン、ビリー・ウィーヴァーは、通りがかりの風変わりなB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト)にフラフラと足を踏み入れてしまう。
50才前後とおぼしきB&Bの女主人は、友達の母親のようないい人だが、ちょっと変わっている。丸くなって寝ているダックスフントや鳥かごのオウムの様子も普通ではない。それに室内にただよう独特のにおいはなんだろう。ビリーは宿帳に記された名前を眺めていているうちに未解決になったままの失踪事件を思い出す。やっぱりなにか変だ。
そういえば、ウイリアム・ワイラー監督で似たようなプロットの映画があった。The Smithsのシングル《What Difference Does It Make?》のジャケットにもなった(写真は後日モリシーに差替え)、その映画で主演をつとめたテレンス・スタンプがクロロホルムのパッド(モリシー版はミルク)を掲げている顔を思い出し鳥肌が立った。その女主人バージョンを想像し、さらに背筋がゾクゾクっとした。青い目をした愛想のいい女主人の顔の裏側には底知れぬ恐怖が潜んでいる。
ところで、ビリー・ウィーヴァーの職業は何だろう? 何度読み返してもわからない。ウィーヴァー(Weaver)という名前や列車で出張するところから、カフカ『変身』のグレゴール・ザムザと同じ、布地の外交販売員なのではないかとにらんでいるのだが。
ロアルド・ダールによる「不気味な宿もの」は、冒頭から皮膚感覚を鋭く刺激し、皮下脂肪を切り裂いて、心の奥底にとどまり続ける。ちょっと泉鏡花の『高野聖』を思い出した。怖さは甲乙つけがたい。1960年のエドガー賞・最優秀賞短篇賞。
「時折、独特のにおいが鼻をかすめた。女主人の体が発しているにおいのようだつた。少しも不快なにおいではなかったが、何かを彼に思い出させるにおいだった──それがなんなのかはわからなかったが。」
— じつぷり (@JITUPULI) May 26, 2019
ロアルド・ダール「女主人」田口俊樹訳
#日本怪奇幻想読者クラブ
エドガー賞のデータベース。作品を検索できる。
ブリティッシュ・カウンシルとBBCの英語学習のページ。「女主人」の英語原文が読める。
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