2006年5月5日金曜日、その夜8時頃からEerikinkatuにある名画座ORIONで上映予定の、黒澤明の『白痴』を見るために、僕とうちの奥さんはヘルシンキ中央駅の前をのんびりと歩いていた。初夏の空気が気持ち良い穏やかな夕暮れどきだった。
Postiのビルの前にさしかかったとき、何やらモアっとした異常な暑さを感じた。鼻の効くうちの奥さんが焦げ臭いを嗅ぎつけ、ふと見上げてみると、Postiの裏手から真っ黒な煙がモクモクと上がっていた。Kiasma(ヘルシンキ現代美術館)が火事だと思って煙の方に向かってかけていった。
火に近づいてみると、燃えていたのはKiasmaではなく、VR(フィンランド鉄道)の旧貨物倉庫だった。火の手は木とレンガ造りの建物を包み込み、すさまじい勢いで赤々と燃え上がっていた。
近くにはすでに多くの見物人が集まっていた。携帯電話で写真をとったり、誰かに電話してその場の状況を伝えているような人もいたが、なんとなく、あきらめの雰囲気が漂っていて、燃え続ける建物をみんなでぼんやりと眺めやり「暑い、暑い」と言っていた。
あれだけの大火事が中央駅のすぐ隣で発生していたにもかかわらず、消防車などによる消火活動がされていたという記憶がない。うちの奥さんも消防車は見なかったと言っている。そんなことってあるだろうか。僕たちはORIONに向かう途中だったので、すぐに火事現場を後にしたのだが、今思い返しても、幻想的で不思議な光景だった。
VRの旧貨物倉庫は1990年代後半に改装され、蚤の市が開かれたり、古着の店やアーティストがアトリエを構えていたりして、ボヘミアンな雰囲気と古風なヘルシンキの趣がそこはかとなくある、心に触れる面白い建築物だった。
そして、よくあることだけれど、火事の後建物を取り壊して駅周辺の開発を進めたい市当局と、文化財として保存しようとする人々の間でけっこう激しい意見の対立があった。火事については放火という説もあったが、本当のところはどうだったのだろう。
今では、その跡地に金属とガラスでできた音楽堂が建ち、木とレンガの貨物倉庫があった頃とは全く違う雰囲気になってしまった。建物が消えていくのは残念なことだが、新しい建築物が場所の記憶や空気感を良い意味で引き継いで、場所の歴史をバージョンアップできたらいいのにと思う。部外者の勝手な意見ではあるが。
その夜の『白痴』は、火事とは関係なく無事ORIONで上映された。それにしてもヘルシンキにおける黒澤明の人気は高く、座席はほぼ満員だった。幻想的で美しい『白痴』の映像とさっき見た火事の光景が、記憶のどこかで奇妙にシンクロしている。忘れることのできない一日だ。
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