「トロッコ問題」または「トロリー問題」と呼ばれる「問題」があるらしい。「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という古くからある倫理学上の思考実験とのこと。最近では、アメリカの政治哲学者マイケル・サンデルの授業でもとりあげられ有名になった。
「線路上で作業中の五人に向かって、制御不能のトロッコが猛スピードで突っ込もうとしている。あなたは、線路のポイントを切り替えてトロッコを引き込み線に誘導し、五人の命を救うことができるが、その場合は引き込んだ線路上にいる別の一人が轢かれて死んでしまう。五人の命と一人の命、どちらを選択するべきか」
選択肢は二つしかない。どちらにしても人は死んでしまう。どちらも選びたくないが、どちらかを選ばなければならない。ジレンマだ。できれば直面したくない状況である。まあ、線路のポイントにうっかりと近づかないようにするのが、ぼくのような優柔不断な人間にとっての唯一かつ最善の選択肢のようだ。
トム・ゴドウィンはSF短篇『冷たい方程式』で、ある種の「トロッコ問題」を問題にしている、と思われる。
ただし、トロッコではなく宇宙艇だ。それに選択肢も一つだけ。拒否権はない。物理的法則の帰結としての「星間法規にある非情な項目L第八節」で決定済みだ。
辺境の惑星に血清を届ける緊急発進艇(EDS)に、立入厳禁の表示を無視して若い娘が密航した。EDS内で発見された密航者は、発見と同時にただちに艇外に遺棄されることになっている。娘を発見したしたパイロットは、規則に従い彼女を遺棄しようとするが……
“Is that it?” she asked at last. “Just that the ship doesn’t have enough fuel?”
Tom Godwin, “The Cold Equations” (Astounding Science Fiction, August 1954)
“Yes.”
“I can go alone or I can take seven others with me — is that the way it is?”
“That’s the way it is.”
“And nobody wants me to have to die?”
“Nobody.”
「それね?」やがて彼女はいった。「充分な燃料がないということね?」
トム・ゴドウィン「冷たい方程式」伊藤典夫 訳(『冷たい方程式』所収)ハヤカワ文庫SF
「うん」
「わたしだけで行くか、ほかの七人を道連れにするか ― そういうことでしょ?」
「そういうことだ」
「それに、わたしが死ねばいいと思っている人なんかいないのね?」
「いない」
誰かが生き延びるために、ほかの誰かが死ななければならないとしたら、生き延びることの意味とはなんだろう?
緊急発進艇(EDS)が収容人数に限りのあるシェルターのメタファーならば、シェルターへの入場資格証はどこで手に入るのだろう?
システム内部で動いている「合理的」な判断をするメカニズムによる最適化、冷たい方程式が人間の選別を自動的に行う。
人間がどんなに苦悩しようとも、方程式は冷たくシェルターへの通行の可否を下す。なんだか「トロッコ問題」が解決しちゃったみたいだ。
しかし、この小説は恐ろしい。読み進むにつれ、若い娘に対する同情心から、生き延びることが決定済みであるパイロットらの苦悩へと、いつの間にか心理的な立場が入れ替わってしまっていることに気がついて、自分自身にゾッとしてしまった。
ただ、他の可能性がないわけではない。パイロットも含めて全員が死んでしまうという選択肢が残っている。でも、それが唯一の希望だとするならば、あまりにも絶望的すぎるだろうか。
こんなことを夢想することができるのも、今のうちかもしれない。この小説を読んで、最近話題の人工知能における Singularity にも通じる不安を感じた。「トロッコ問題」は「問題」のままにしておいてもよいのではないか。
誰が生きて、誰が死ぬのか。そんなことを考えてもしょうがない。何にせよ、「君は、生き延びることができるか? 」などと問われることのない世の中であってほしいものだ。
宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』(1932年、昭和7年)にも類似のテーマが垣間見える。
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