「すべての人に分身がいて、その分身は地球の裏側に住んでいる。ただ、分身は互いに逆方向に動くきらいがあるので、出会うことは稀である」
フリオ・ラモン・リベイロ「分身」入谷芳孝・木村榮一 訳 『遠い女―ラテンアメリカ短篇集 (文学の冒険シリーズ)』所収
Julio Ramón Ribeyro, “Doblaje”
真冬のフィンランドで深夜、一人っきりで近所の森林の中を散歩したことがある。散歩コースは、民家、畑や牧場のエリアと、それ以外の他3分の1ほどが森林に囲まれた、全体としてわりあい平坦な道のりで、時計回りに一周すると小一時間かかる。
昼間、友達とよく散歩していたので道筋は知ったつもりだったが、見慣れた景色も夜には全く違って見える。暗い雪道の岐路に出ると、どちらへ向かうべきか一瞬わからなくなる。フィンランドの森林は起伏は少ないが、奥が深いので道を誤ると大変だ。
フィンランド人でも、森に入ったまま行方不明になることがある。“Metsänpeitto”「森に(毛布に包まれるように)消えてしまう」というような意味の言葉があるのだと、あとでフィンランドの友人から教えてもらった。
その夜の気温はマイナス20度以下だった。昼間でも凍結した道を、自分の手もはっきり見えない暗闇の中、難儀しながら滑って転ばないようにゆっくりと歩くうち、ふと狼のことを考えて怖くなった。そのあたりに狼が生息しているかどうかは知らないが、暗闇の向うに何事かの気配を感じた。
加えて、フィンランド内戦のことが脳裏に浮かんだ。タンペレあたりでも大規模な戦闘があって多くの犠牲者が出た、という話をきいていた。落武者の幽霊が出ないとも限らないではないか。
でも実際、そこで最も出会いたくないものは、狼や幽霊などよりも生身の人間だった。暗闇の向こうから人間がヌッと現れ、静々と歩いてきたら……、それが自分とそっくりだったら……、などといった妄想が脳裏をかすめた刹那、体感温度が一気に下がり背筋がゾッとした。
結局、狼にも幽霊にも自分の分身にも遭遇せず、Metsänpeittoになることもなく、無事部屋に帰ってきたときには気分がすっきりとし、まるで別人に生まれ変わったような清々しい気分だった。
ところで、あの時あの森のどこかで、自分と分身が入れ替わっていたということはないだろうか、などということを試しに考えてみる。
仮にそういうことがあったとして、うちの奥さんもフィンランドの友達も、誰一人として気づく者がいないなら、いわんや自分自身が気づかないなら何の問題もない。ただその場合、本当の自分は今どこにいるのか、ということだけは問題になるかもしれないが。
フィンランドにいたときには、よく森林を散歩していた。もっとも、外国や不慣れな土地での独り歩きには気をつけたほうがいいときもある。 時と場所は選ぶ必要がありそうだ。
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