マーティンは、秋がまたやってきたのを知った。犬が、秋の風と霜と、木の下で醸酵したリンゴの匂いをもって走りこんできたからだ。犬は、時計のゼンマイのようなその黒い毛のなかに、キリン草、夏の名残りのほこり、ドングリの殻、リスの毛、飛び去ったコマドリの羽毛、新しく切り倒した木材から出たオガ暦、カエデの木が散らした黒い枯葉といったものを、からみつかせているのだった。犬が、じゃれて、跳ねると、もろいシダの葉だとか、黒イチゴの蔓、沼地の草などが、ベッドの上に、雨となってふるい落とされる。マーティンは叫び声をあげた。疑いはない。ぜったいにまちがいはない。十月というふしぎな生きものがやってきたのだ!
レイ・ブラッドベリ「使者」(『十月はたそがれの国』宇野利泰訳 所収)
The Emissary: Ray Bradbury (The October Country)
ギリシャ神話のヒッポカムポス(Hippocampus)にその形が似てることから、大脳の記憶に関する機能を持つ部位を海馬というらしい。十月になるとその海馬がソワソワしてくる。夏の間ゴロゴロしていた海馬=ヒッポカムポスが、ムクリと起き上がり伸びをしている。
近ごろ咲き始めたばかりの金木犀のいい匂いが海馬を揺り起こしたのか、以前近所にあったオーディオショップをしばしば訪れていた古い記憶が脳裡に浮かんでくる。海馬は匂いフェチにちがいない。
音響機器の美しさ、というよりむしろその匂いが好きで、当時の主に国産のオーディオ、DIATONEのスピーカー、YAMAHAやPIONEERのレコードプレーヤー、TRIOやSANSUIのアンプ、AKAIやSONYのテープデッキのパネルがボオっと朧に照らす薄暗いフロアーを茫然とうろついていた。
人肌と機械部品が混じったような独特の匂いが、オーディオの電源やモーターなどの火照った部分から出てくるのだとしたら、フィリップ・K・ディックのSF小説に出てくるアンドロイドもきっとこんな匂いにちがいない、などととりとめもないことを考えながら、ジミ・ヘンドリックスのパープル・ヘイズとかリトル・ウイングを、このオーディオのセットで大音量で聞けたら、さぞかし気持ちいいだろうなと夢想していた。
また、行きつけのレンタルレコード店の紫煙とレコードクリーナのアルコール臭が混じって熟して発酵したような空気の匂いも思い出す。ジミ・ヘンドリックス、アリサ・フランクリン、オーティス・レディング、モータウンやバート・バカラック、それに当時のロック・ポップスなど、片っ端から借りては貪るように聞いていたLPレコードのジャケットがパタパタと脳裡をよこぎっていく。
今では、レンタルレコード店それ自体が消滅してしまい、そのオーディオショップも閉店してから随分と時間がたっている。本当にそんなものが存在したのだろうか、と自分自身で疑問に思うこともある。とりあえずは匂いと一緒に海馬に保存されている記憶だけが頼りなのだが、困ったことに、その海馬がいい加減なヤツだ。ぼく自身しばしば記憶違いをするが、個人な記憶力とは別の、海馬の一般的な性質のようだ。
記憶システムの中心に頼りない海馬を据えている脳みそとはなんだろう。あるいは脳みそが頼りない海馬を必要とする切実な事情があるのかもしれない。江戸川乱歩の「うつし世は夢、夜の夢こそまこと」のごとく、信頼できない海馬の映し出す夢を見続けるのが人生だとしたら。
ところで、今年(2017年)のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの「信頼できない語り手」とはなんだろうか。海馬に絡めて考えると、「海馬というのは信頼できないヤツだ」ということにこちらが気がついて、海馬との間に暗黙の同盟関係を結び、失われた時をなんとか語り直そうとする探求と創造の語り手であり、またそれによって自分だけでなく他者の魂も回復・再生しようとする魔法使いでもある、と言えなくもないのではないか。
イタリアのローマにある「トレヴィの泉」のヒッポカムポスの背中には小さな翼がついている。ぼくたちの脳みその海馬にも小さな翼があるにちがいない、しっかりと記憶しておこう。でもこの翼、どうやって使ったらいいんだろうか。
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