小学新一年生の四月、授業初日のことをときどき思い出す。
ぼくは授業中に突然席を立って、教卓にいたH先生に向かっていった。H先生は当時50歳ぐらいの男性教員で、ちょっとおなかの出っ張った丸っこくて大きな人だった。
先生は訝しげにぼくの顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「うんこ」
「うんこ!? トイレ行ってこい!」
みんなの笑い声を背中に浴びながら教室を出てトイレに向かった。
用を済ませて、手を洗っていると、同級生のO君もトイレにいて、「オレも便所に行きたかったんだよ、お前勇気あるな。あっ、ハンカチ貸してくれ」などと話しかけてきた。感心されても困るんだけれど、トイレに行きたければ、自分でそう言えばいいのに、ちゃっかりした奴め、と心の中でつぶやいた。
でも勇気があったわけではない。急を要していたのだ。「先生、トイレに行きたいです」と手を挙げて言えばよかったのだろうが、あのときはどうしたらいいかわからず、いきなり先生の方に向かってしまった。 七福神のえびす様のように、いつもはおだやかでニコニコしたH先生の、ちょっと虚を突かれて眉間にシワを寄せた表情が今でも目に浮かぶ。
随分前のことなのに、わりにはっきりと覚えているのは、それがある種の原体験だったからなのかもしれない。
9年間の義務教育が始まった初日の授業で主体的に発した最初の言葉が「うんこ」だったことが自分の人生にどんな意味あるのか、未だにわからなままでいる。
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