チューリヒ発の飛行機を降り立った客は十人ほどだったというのに、リングウェイ空港で荷物が上がってくるまでに小一時間、それから税関を出るまでにさらに一時間がかかった。というのは、夜も更けて当然ながら退屈をもてあましていた税関吏たちが、眼前にあらわれた当時としては珍しいケース、各種証明書に手紙や推薦状を携えてこのマンチェスターに住んで研究生活をすると称する学生を、あきれるほどねちねち、こまごまと調べだしたからである。
W・G・ゼーバルト「マックス・アウラッハ」鈴木仁子 訳(『移民たち 四つの長い物語』所収)白水社
「スモールトーク」という言葉を知ったのは、フィンランドに留学したときだったかもしれない。初めてその言葉を聞いた時は、「トーク」に大小があるんだ、と思ったけれど、欧米の国々では日常的に行われている、ちょっとした世間話や天気の話などの会話のことらしい。つまり「ささやかな無駄話」のことのようだ。
この「ささやかな無駄話」は、ご近所同士や仕事の同僚などの顔見知りのあいだで交わされるものだけではなく、バスや電車のなかで偶然隣り合わせになった知らない者同士の、その場限りの会話であったり、あるいは、学校や仕事の関係で初めて会う人同士の、でもこれから人間関係を深めていこうというときにもよく行われる。
ただ、「ささやか」ではあっても、また、どうでもいい「無駄な世間話」とはいっても、「初対面の人」に対しては、ちょっと勇気がいるかもしれない。
僕は、社交的ではないし人見知りも強いので、こういうことはどちらかと言えば苦手のはずなのだけれど、どいうわけかフィンランドに住んでいたころは、「スモールトーク」を楽んでいる自分がいることに気がついて、自身の意外な面を見た気がした。
また、フィンランド人もシャイな人が多いのは事実だけれど、当然のことながら、それは一面的な見方にすぎない。案外、彼らはおしゃべり好きなのだ。(もちろんそれも、一面にすぎないのだけれど)。
ところで、飛行機でフィンランドの空港につくと、最初に接するフィンランド人は入国管理の審査官だと思う。不法入国を阻止すべく、睨みを効かせた審査官のお兄さんやお姉さん(おじさんやおばさんの場合もあるが)からの、フィンランドに来た目的は何? 何日間滞在するのか? どこに滞在するのか?、といった、矢継ぎ早の質問に答えなければならないので、やましいところがないにもかかわらずドキドキするが、いつの頃からか、むしろ彼らとのちょっとした会話を楽しむようになっていった。
例えば、数年前にフィンランドに行った時の審査官のお兄さんとの会話は、こんなだっと記憶している。審査官の「フィンランド訪問の目的は?」という質問に対して「写真のワークショップに参加するためです」と正直に言うと、「どんなカメラを使っているのか? 最近私はナイコン(ニコンのこと)の○○という一眼レフのデジカメを買った」と少しニヤッとして言うので、「そのニコンのカメラは良いカメラですよね。僕はキヤノンを使っていますが」と答えた。また、「滞在先は?」という質問には、「友だちのアパートに泊めてもらいます。Porvoonkatu です」と答えると、「僕の友だちもその近くに住んでいるんだ。Pasila 駅に近くて便利だね」とか。
逆にこちらから「ヘルシンキの天気はどうですか? 友だちからのメールによると、寒波が来ていてとても寒いと聞きましたが」と尋ねると、「先週からシベリアから強い寒波が来ている。ヘルシンキはもうしばらくとても寒いよ。厚手のジャケットは持ってきた?」と現地の気象情報を教えてもらった上に、親切にも僕の防寒の気遣いまでしてもらった。
入国審査に限らず、「スモールトーク」にコツのようなものがあるとしたら、「心を少しだけ開いて」気軽に会話するということかな、と思う。「どうやったら少しだけ心を開くことができるのか」というのは、人それぞれだと思うけれど、まあ、知り合いとコーヒーでも飲みながら立ち話をしている感じで、ほんのひとときを楽しむことができればいいんじゃないかな。フィンランド人の入国審査官も事務的な質問の繰り返しで少々退屈しているかもしれないし。
ところで、他の夫婦の人たちは普段どんな会話をしているのかは知らないが、僕たち夫婦の場合、「どうでもいい無駄なこと」しか話していないことに最近気がついた。
もう十数年も「無駄話」を続けてきて、今のところ一応それなりに良好な関係が続いている(と少なくとも僕は思っている)ので、「無駄話」も全く無駄ではなかったのかなと思う。
大げさかもしれないけれど、ある意味「ささやかで、どうでもいい無駄なこと」の繰り返しとその積み重ねで世界は成り立っているのかもしれない。
ただし、夫婦の場合は会話があらぬ方向にむけば、「どうでもいいこと」ではすまなくなる恐れがままあるので、会話を「スモールトーク」のレベルにとどめるべく、細心の注意を払う必要がある。これはこれでコツを要するのだけれど。
ただし、夫婦の場合は会話があらぬ方向にむけば、「どうでもいいこと」ではすまなくなる恐れがままあるので、会話を「スモールトーク」のレベルにとどめるべく、細心の注意を払う必要がある。これはこれでコツを要するのだけれど。
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