トランシルヴァニアのどこかで、怪人ドラキュラは棺の中で眠り、夜が来るのを待っていた。太陽光線にさらされると、たちまち体が朽ち果ててしまうため、家名を銀の文字で入れ、サテンの裏張りをほどこした密室の中でこうして息をひそめているのだ。やがて最初の闘が訪れると、この魔物はふしぎな本能でそれを感じ取って、安全な隠れ家から姿を現わし、おぞましいコウモリかオオカミに変身して、近くの村々をうろつき、犠牲者の血をすする。やがて彼の宿敵である太陽が、最初の光を放って新しい一日の到来を告げる前に、ドラキュラは急いで安全な秘密の棺の中にもどって眠り、またもや新しいサイクルがくり返される。
ウディ・アレン「ドラキュラ伯爵」浅倉久志 訳(『これでおあいこ』所収)CBS・ソニー出版
Woody Allen, “Count Dracula” (“Getting Even”, Random 1971)
「千人に一人のリリシスト」というよりも、その髭面から小島功の漫画『ヒゲとボイン』に出てくるキャラクターを想起させる男性が、その馬鹿げた連想にもかかわらず穏やかに微笑んでいる。手元にある、ルーマニアのピアニスト、ラドゥ・ルプーのCDジャケットを眺めていたとき、フィンランドの国民学校でのある場面を思い出した。
「もし、あなたが数週間の休暇を得て、例えばタンミサーリの森の中に独りで住んでいて、人と会う予定もなにもないとしたら、あなたは髭を剃りますか? 化粧をしますか?」
英語力のなさを棚に上げて参加していた、時事に関するディスカッション中心の上級者向けのクラスで、ある夕方の授業の冒頭、ラドゥ先生から身近な話題がみんなに提供された。
ラドゥ先生はドラキュラで有名なルーマニアのトランシルヴァニア地方出身で、ハンガリー系と推測される姓を持つ。2000年頃、彼が30歳ぐらいのときにフィンランドに移り住み、英語の教師をしていた。
なぜ故郷を離れることになったのか、なぜフィンランドなのかといった個人的な事情については、ぼくは何も知らない。ラドゥ先生はいつもこざっぱりとした身なりで、髭もきちんと剃っていた。
「あなたはどうですか、髭を剃りますか?」ラドゥ先生から発言を促され、「多分剃ると思います。なぜなら、そのほうが気分がいいし、習慣にもなっているから」などと慌てふためいて答えると、「ふうん、そうなの? ちょっと信用できないな。まあいいでしょう。ぼくだったら絶対に髭は剃りません。だってしばらくの間、誰にも会わないんですよ。面倒くさいじゃないですか。それに髭を剃らなくていいことに自由を感じませんか」とにこやかに応じてくれた。
質問の設定がフィンランドでは現実味がありそうなだけに、髭を剃る派、剃らない派、女生徒たちは化粧をする派、しない派にわかれて、思いがけず議論が活発になった。
それまで髭剃りと自由を関連付けて考えたことなどなかった。共産党独裁政治と民主化革命後の政治的混乱を経験した者と、そうでない者との違いなのだろうか。自由の意味も価値も彼とぼくの間には大きな隔たりがありそうではあったが、ラドゥ先生の人柄を身近に感じた瞬間だった。
ピアノを弾くことに没頭しすぎて剃ることを忘れたわけではないだろうが、世捨て人の風を醸し出すラドゥ・ルプーの髭面が、ぼくの心のどこか深いところに埋もれていた記憶を手繰り寄せた。
フィンランドの森の中の一軒家で髭を剃らずに何週間も過ごすことは能わずとも、狭いながらも楽しい日本の我が家で、休日の一時をラドゥ・ルプーを聴いて過ごすことはできる。そのピアノの美しい音だけではなく、静けささえもが心に響き、社会や世間から解放されて心に自由をもたらしてくれる。
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