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#017 記憶の層にはさまる斎藤、カフカ『変身』高橋義孝 訳

短篇小説
Kallio Helsinki 2012
Kallio Helsinki 2012

 グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の上で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた。鎧のように硬い背中を下にしてあおむけに横たわっていて、頭を持ち上げてみると、腹部は弓なりにこわばってできた幾筋もの茶色い帯に分かれていて、その上に乗った掛け布団を滑り落ちる寸前で引き留めておくのは無理そうだった。脚は全部で何本あるのか、身体全体の寸法と比べると泣きたくなるくらい細くて、それが目の前で頼りなさそうにきらきら震えている。

カフカ『変身(かわりみ)』多和田葉子 訳
カフカ ポケットマスターピース 01 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)所収

やや厚みのある集英社文庫所収の多和田葉子訳による『変身(かわりみ)』を、先日、名古屋の丸善で見かけた。手にとって頁をめくってみるとそこに、「ウンゲツィーファー」がきらきらと震える脚をあおむけに横たわっているのを発見した。

カフカの『変身』をはじめて読んだのは、高校一年の夏休みだった。射るような眼差しを投げかけるカフカの写真を配した表紙カバーが印象的な、新潮文庫の高橋義孝訳だ。定価160円と印刷された文庫のカバーはあちこち破れている。

自宅の本棚、一番右端のポジションを堅守している、その高橋義孝訳の黄土色の表紙カバーを開いてみると。そこにいたのは「毒虫」だった。てっきり「甲虫」だとばかり思っていた。

思い違いの原因として思い当たるのは、「斎藤」だ。吉田戦車の漫画『伝染るんです。』に登場するカブトムシである。どうやら三十年以上前に読んだ「毒虫」と最近の「ウンゲツィーファー」との記憶の層に、いつのまにか「斎藤」の面影がはさまってしまった。

ところで「斎藤」は何か嫌なことや不都合なことがあると、ぶーんとどこかへ飛んでいってしまう。カブトムシなので、薄い羽があってなんとか飛べるのだが、ほぼ同種同類と考えられるグレゴール・ザムザにも、ナボコフが指摘したように、羽が生えていたはずだ。

グレゴール・ザムザは自室の窓から何度も外を覗いているが、「斎藤」のように、羽を羽ばたかせて外に逃げ出すことは考えもしない。身体であれ社会であれ一旦生じた変身のプロセスは、システムとして稼働しつづけ、心の自由も奪っていくのだろうか。鳥かごの中の鳥は羽根が生えていること自体を忘れてしまう。ここにもディケンズの鳥かごと同様の主題が見え隠れしているように思えた。

 ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変っているのを発見した。彼は鎧のように固い背を下にして、仰向けに横たわっていた。頭を少し持上げると、アーチのようにふくらんだ褐色の腹が見える。腹の上には横に幾本かの筋がついていて、筋の部分はくぼんでいる。腹のふくらんでいるところに掛っている布団は今にもすっかりずり落ちそうになっていた。たくさんの足が彼の目の前に頼りなげにびくびく動いていた。胴体の大きさに比べて、足はひどくか細かった。

カフカ『変身』高橋義孝 訳 新潮文庫

すぐ読める度:4.0
再読したい度:5.0
傑作・名作度:5.0

じつぷり
じつぷり

多和田葉子訳もいいけれど、やっぱり高橋義孝訳が肌に合う。


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