フィンランドでは、集合住宅の部屋やエントランスはだいたいオートロックになっているので、部屋の鍵を持たずにうっかり部屋を出て扉を締めてしまうと、部屋からロックアウトされてしまう。部屋に入れないということは、季節によっては命に関わることを意味する。
ヘルシンキで暮らすフィンランド人の友人二人が、彼らの体験談を話してくれたことを覚えている。まだ雪が残る春先のある夕方、アパートの住人専用サウナに入っていた二人は、何を血迷ったか、外に出てみようということになり、携帯電話も持たず、腰にタオル一枚で、スニーカーを履いて外に出た。
その格好でアパートの周りをぐるりとひとっ走りし、サウナに戻ろうとしたところ、エントランスの鍵を忘れてきたことに気づき、建物の中に入れなくなってしまった。ちょっとした好奇心が招いたピンチだ。馬鹿げた思いつきを後悔したが後の祭り。
このままでは凍え死んでしまうと震え上がった二人は、アパートに向かって、腰のタオルも外して、ぶるんぶるんと振り回し、中の住人に気づいてもらおうと大声で助けを求めた。体が冷えるとアパートの周りを走り、大声で呼びかけ、また走る。そんな調子でぐるぐるとアパートの周りを何周か走っていた。
そのうち、アパート内にいた一人の老婦人が、ほぼすっぽんぽんでアパートの前をうろつき、叫んでいる二人の男に気がついた。あとから聞いたところ、尋常ではない彼らの様子から、変態か麻薬中毒者(あるいはその両方)だと勘違いし、もう少しで警察に通報するところだったらしい。運良く、ちょうどアパートに帰宅してきた住人がいたので事情を説明して一緒に中へ入れてもらい、サウナへ無事帰還することができた、と彼らは語った。
もし誰も気付かなければ、自分の住むアパートの前で、裸で凍死していたかもしれないね、と言うと、むしろ警察に通報してもらったほうがありがたい、と笑っていた。
でもフィンランドでは起こり得ないことではないよ、と一人が言った。ヘルシンキのような都会ならまず大丈夫だが、人里離れた森の中の一軒家だったら、危なかったかもしれない、フィンランドの田舎では、春になって雪が解けると、冬の間音信不通だった人が、その家のすぐ前で凍死体となって発見される、なんてことがざらにあるからね、家に入れなかった事情はそれぞれだろうが、鍵を失くしたことが原因ということも考えられるよ、もちろん服は着ているだろうがね、と。
それまで笑っていた二人が、いつのまにか真面目腐った顔つきになり、青く透明な瞳でぼくを見つめていた。一瞬、氷柱のような一筋が、サッとぼくの背中を走ったような気がした。
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