ある作家との出会いがいつだったかをはっきりと憶えている場合がある。もちろんその作家が書いた書物を通してという意味で。
例えば、コナン・ドイルとは、小学6年生の夏休みに、6才ぐらい上の従兄弟の本棚に『シャーロック・ホームズの冒険』を偶然見つけたときだったし、安部公房を知ったのは高校1年生のときに、『壁』を現代文のT先生から薦められたからだ。十代の頃に出会った本のことって、本の内容以上にその時の自分の状況のほうをよく憶えてるのかもしれない。
逆に、いつからその作家やその人が書いたものを読み始めたのか、まったく思い出せない時も結構あって、誰に薦められたのか、どこかの書評で知ったのか、何から読み始めたのか、まったく憶えていないことがある。いつの間にか知って、なんとなく好きになって、そして今でもズルズルとその人の文章を読み続けることになる。
つい数日前、なんとなく図書館で借りてきた『天上大風』というエッセイが手元にある。著者は堀田善衞。この人のことをいつ知ったのか、まったく憶えていないが、好きでズルズルと読み続けている。
「天上大風」は「てんじょうおおかぜ」と読む。良寛の言葉として有名らしい。意味はよくわからないけれど、「空は一見穏やかそうだが、上空高いところでは、風がビュウビュウと強く吹いていて大変だぞ」というような意味であろうと、勝手に解釈している。
不思議なことに、なんとなく『天上大風』をパラパラとめくっていたら偶然こんな文章を目にした。ちょうど今日(2015年7月15日)の昼過ぎに、憲法に関する強行採決のニュースを聞いたばかりだったのでちょっと驚いた。
われわれの平和憲法もまた、一つのイデオロギーであると言えるであろう。現実の世界に置いてみれば、まさにまだ若々しいものではあるけれども、われわれはこのイデオロギーによって、歴史を創って行こうとしたのではなかったか。このイデオロギーまでを、プロクルステスの寝台に横たえて、為政者が長すぎると見る足を切ったり、短足と見るものを、綱をつけて引っぱったりしてはならないのである。
堀田善衞「プロクルステスの寝台」(『天上大風』所収)ちくま学芸文庫
「プロクルステス(Wiki)」とは、ギリシャ神話の登場人物らしい。悪そうなやつだ。
(5) Procrustes 古代ギリシャの伝説のアッティカの強盗で、人を捕えたたびごとに鉄の寝床に寝かせ、その身長が寝台より長いときはその余った部分を斬り縮め、短かければ引き延ばして同じ長さにして殺したと言い伝えられている。
ポー 「盗まれた手紙」の注釈より 佐々木直次郎訳 (『モルグ街の殺人事件』所収)新潮文庫
ギリシャ神話ではプロクルステスは、アテーナイの王テーセウスによって退治されるが、現代の日本ではどうだろうか。「だから言わんこっちゃないよ」という堀田善衞の嘆きが、草葉の陰から聞こえてきそうだ。
他人ごとではない。自分自身のことなのだ。が、どうしたら良いのだろう。プロクルステスの寝台に載せられているのは、自分も含めて日本国民そのものなのかもしれないのに。やはり、地道ではあっても、先人たちの考えから学ぶことが大切かもしれない。長い道のりではあるけれど。
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